躁と鬱

週間朝日(9月5日号)に作家の五木寛之氏と政治学者、姜尚中(カン・サンジュ)氏との対談“「鬱の時代」をどう生き抜くか”が載っている。
「日本は、明治の初めから日露戦争のころまで躁の状態で、日露戦争が終って、劇的に鬱の時代に入ってくる。また戦後、50年間の躁状態が続いて今は、その躁からゆっくりと鬱の時代に行きつつあるのではないか。躁が50年かかったんだから、鬱も50年かかるだろうと思っています。」と五木氏は言っている。
躁とはなにか、鬱とはどんな状態かをまず考えたい。
躁……「戦後の前向き主義というか、全部水に流して前へ前へ進めということ。」
鬱……「鬱の中には「憂」という感情と「愁」という感情との二つがある。憂というのは外に向けて発せられる気持ちであって、国を憂える憂国、子供の教育はこれでいいのか、地球環境はこのままでいいのかと、熱烈に憂えるホットな感情です。
もうひとつが愁です。人間の生き方を根本から考えるときに、人間とは何かという、おのずと浮かび上がってくる、しーんとした感覚が愁だと思うんです。クールな感情ですね。この二つの大事なものが鬱にはあると思うんです。」
「今、悩みや鬱を病気の前的な症状とみる傾向があるようですが、鬱とか悩むということは、実は大事なことなんじゃないか。」
「小学生や中学生でも、ほおづえをついて、窓の外を見て、子供がものを考え込んでいたりしたら、やる気のある先生ほど、「だめじゃないか。もっと前向いて、元気出せ」というに決まっているんですよ。そうじゃなくて、悩むことは大事なんだということを、ちゃんと教育でも教える必要があると思いますね。」
本居宣長は、悲しいときには悲しいと思い、声にも出し、人にも語れと言っています。語って、歌にして、それを他人が理解して、「ああ、悲しいんだね」と言ってくれると、自分は生き生きしてくる。だから、悲しいときに泣くとか、悲しむとか、声に出すということで、自分の中の悲しみを客体化して、乗り越えられるんだと。秋葉原の犯人は、それを語る相手がいなかったんですね。」
「エコというのは、鬱の経済学。文化全体がこれからそうなっていくでしょう。医学でも大病院の先端治療という躁の医学ではなく、代替医療といった鬱の医学に費やすお金が増えてくる。これからはすべての分野が鬱の方向に進んでいくというのがぼくの直感です。」
以上、みな、五木氏の言葉である。これに姜氏も賛同している。
何と何と、世の中はこれから徐々にではあるが「鬱の時代」へと様変わりして行くらしい。そうした風潮の中で、ただ“前を見て進め”の生き方を説くのは、もはや時代遅れとなってきた。あの秋葉原の忌まわしい事件も確かに偶然の発生ではない。似たような事件が多発する世情にある。これからは“鬱”を毛嫌いせず、じっくりと悩み、また人との対話を大切にしていこうと思う。      (了)