効率偏重社会

読売新聞1/19(木)の朝刊「論点」欄に「効率偏重社会」“手間暇かけて生きよう”の記事にすごく共感したので、ここに抜粋しておこうと思う。
「新しい年を迎え、いま大切にしたいこと、考えなければならないことを思う時、浮かんでくるのが“いのち”と“こころ”である。
これらが大切なものであることは誰もが知っているのに、現実には大切にされていないのはなぜだろう。皆が悩んでいる。誰のせいでもなく、私たち自身の生き方に問題があるに違いないというところまでは分かるのだが、ではどうしたらよいのか、となると答えは見つけにくい。
もちろん私も悩んでいる一人だが、問題はむしろ、私たちが何にでもすぐ答えを出したがり過ぎているところにあるのではないかと考え、そこからきっかけを探す試みをしてみた。
現代を特徴づける一つに科学技術がある。様々な家電製品や自動車、コンピューター…。身の回りのものを挙げればすべて科学技術の成果であり、これらが与えてくれる便利さの恩恵は大きい。しかしそれゆえに、私たちは便利さに重きを置きすぎていはしないだろうか。
先に挙げた「何にでもすぐ答えを求め過ぎる」のも、ここから来ていることだと思う。唯一の正しい答えがあり、物事は効率よく思い通りにできるのがよい、科学技術が基本にしているのはこの考えだからである。
ところが、人間もその一つである生きものは、効率よく思い通りにできるものとは程遠い。そもそも生きるとは、時間を紡ぐ過程そのものなのである。しかも、それは決して思い通りになるものではない。草花でも子どもでも生きものを育てることを考えたら、「唯一の正しい答え・効率・思い通り」という考え方が、いかに生きものに合わないものであるかは、明らかである。
“いのち”と“こころ”と言うと、抽象的でどう扱ってよいか分からなくなる。しかし、ここで挙げたように、時間がかかること、思い通りにならないことをすべて否定的に見ないようにすることで、いのちやこころが大切にされるようになるのではないかと思う。
というのも、いのちもこころも、私たちの周りのどこかにポンと置かれているものではなく、生きていくという過程の中にこそあるものだからである。それは関係の中にあると言ってもいいだろう。子どもをかわいいと思う気持ち、友だちを大切に思う気持ち、どれも相手との間にある。大切に思うのは、人間だけではない。共に暮らす犬や猫はもちろん、お気に入りのマグカップもそうだ。動物に心はあるか、と問うても仕方がない。ましてやカップにいのちやこころを探すことはない。でも、私が生きているからこそ、それらとの間には心が働くのである。それらと共有した時間の中での体験が、新しく接した人や動物、器物にも心を働かせ、時には嫌なことも許せるようにしてくれるのだと思う。効率だけを求めず、生きるというこの面倒な過程そのもの、つまり、日常の暮らしにもう少し手間暇かけるようにして、こころといのちを大切にする社会にしていきたい。」
筆者は、JT生命誌研究館館長、中村桂子氏(大阪大大学院教授など歴任。理学博士) (了)