J1リーグを興した人

プロジェクトXで又々熱血漢の登場である。山之内興三氏。一介のサラリーマンが腎臓摘出まで受け、生きていくのがやっとの身ながら、何か仕事をしたい、社会に役立ちたいとの思いから、サッカーに天賦の才を見せる親友、永井氏のために、世界に伍して戦っていけるだけの力をつける場が必要と、サッカーのプロリーグの設立を志す。
今から約20年前の日本のサッカーは協会としての組織はあったものの、各企業が抱えたアマチュアチームをまとめただけのものであり、企業の浮沈に諸に影響され、とても優秀なサッカー選手が育つ環境ではなかった。観客動員数も知れたもので、公式戦とはいえ、スタンドに4〜5人という当時のビデオテープも残っている。
プロサッカーリーグ立ち上げのために東奔西走する彼。その彼の、週に3回の人工透析を受けながらの必死のがんばりに、知人の実力者が彼を組織母体の事務局長に推してくれた。これで生活が何とか成り立った。
プロサッカーリーグとして立ち上げるには、どうしても大勢の観客を動員出来なければならない。彼はサッカーの関心を高めるために当時、唯一の有名人、釜本邦茂に協力を頼み込んだ。そして出来上がったポスターが全裸の釜本の衝撃的な図柄である。
全国からチーム参加に13チームが名乗りを挙げてきたが、当時の会長がグローバルな観点から、チーム名に企業の名前を出してはいけないと言明し、大問題となった。真っ先にこれを了承したのが名古屋を本拠に持つトヨタであった。
観客動員の課題を何とか解決しようと全国を回った彼は、山形で熱狂的なサッカー試合を見た。プロ野球も相撲も来ない地方を掘り起こせば、地元に根付いたサッカーチームとして大勢の観客を引っ張り込めると確信した。鹿島のチームはレベルが低く、とても最初からプロリーグに加えるには無理と思われた。しかし、地元企業、住友金属の熱意と地域住民の全面協力を得て、素晴らしい全天候型のサッカー場も出来上がった。彼はここに、世界的なプレーヤーで復帰間もないブラジルのジーコ選手を呼び込むことを思いつき、果敢にアタックしていった。ジーコは「鹿島でプレーすることは自分の天命である」とここにめでたく交渉成立。1990年頃、ようやく10チームで立ち上がった、J1リーグの前期の試合で、何とこの鹿島アントラーズが優勝し、地元を始め、日本中が「ジーコジーコ」で沸き返った。
以後、J1リーグは逐次チーム数を増やし、今や16チームで激戦を繰り広げるようになり、隆盛を誇っている。あの親友の永井さんは古巣のジェフ市原の監督になった。
プロジェクトXのスタジオに山之内さんと永井さんが招待されていた。山之内さんの功績を称えて、彼の人口透析2000回記念に大勢のサッカー関係者が集まり、盛り上がった。
苦労が実った名場面のスクリーンを前に、彼が時折り流す涙がとても印象的だった。彼を支え続けた奥さんも、しばしばスクリーンに登場したが、理解のあるしっかりした人だった。半身不随のような身ながら、こんな大仕事を成し遂げた人もいたのかと感動した。
この日記はH14.4.25のものである。             (了)