富弘美術館

sadoji2005-09-22

この連休中、勢多郡東村にある、富弘美術館にも足を延ばした。
2005年4月に、すっかりリニューアルされ、平屋の銀色にまぶしい新館に迎えられた。
年平均来館者が35万人で、開館から14年は経つから、もうすぐ入館者は500万人に達する。連休中でもあり、相変わらず混んでいた。丸い展示室に作品が整然と並んでいて、お行儀のいい展覧会場になったなあ、との印象を受けた。中にビデオ・ルームが2つもあり、同じものをやっていた。星野富弘さんも、早や50台の後半となり、映像の中で以前より円熟味の増した、ふくよかなお顔で、電動の車椅子を器用にあやつって、自然豊かな、ここ故郷の田舎道をゆったりと走っている場面が要所要所に写っていた。
作品の詩の中に“嬉しい時に、自分の体がピクリとも動かず、何も表現出来ないのが一番はがゆい”というのがあった。大怪我の後、希望を捨てないで、それこそ地獄の辛酸をなめ、これまで立ち上がってきた彼の忍耐と努力に、改めて驚嘆する。
ネットで、’98年12月に彼を取材した、放送テープの抜粋を見つけたので、ここに一部、掲げることにする。
「命は大切なものだけれども、意識して生活しているわけではない。
命も危ないんじゃないかという怪我をしたとき、初めて命というものが自分の中にある事に気がついた。
自分が生きるとか生きなければならないとか、そういうことを力んで意識しなくても
食べたものはちゃんとからだの中でこなれるし、ちゃんと外にでてくれる。
自分の力で生きているんではなくて、やはり、何か大きなものに動かされている。
絶対そうじゃないかと思いはじめた。
動けなくなった人間は、もう面白いこと楽しいこと、喜び希望なんか全然なくなると
おもってた。
明日死ぬんじゃないかというときでも、
人工呼吸器を使って、一息一息が命を吸って生きている。
そんな状態でもけっこう面白いことがある。
眠れない夜も、朝が来るのが楽しみ。
朝の光が差し込んでくる頃、とても希望が沸く 朝は嬉しい。
昼間が来ても楽しいわけはないが、朝は嬉しい。
歯を食いしばっていても、どうでもよいと思っていても、ちゃんと生きている。
自分を生かしてくれる何か大きなものがあるじゃないか… 」
                               (了)