尺八演奏会

sadoji2016-04-27

若葉の萌えるこの5月の21日(土)、都山流尺八千葉県支部主催の尺八演奏会が開催されます。この2年間、満を持してコツコツと修練を積み重ねてきた成果をいよいよ発揮できる機会がやってきました。場所は千葉市文化センターアートホールで、10時開演です。入場無料です。会場に足を運んで来れさえすれば、ほぼ一日、ゆったりと邦楽を楽しむことが出来、癒しを得られること請け合いです。
最近、催し物がやたらに多く、忙しい世相に輪をかけたような状態で、かえって一般市民はこれに面喰い、無関心を装う人たちが増えているように思います。そこは的を絞って、これは、というものにはいそいそと足を運んで戴きたいものです。今も邦楽関係は料金的に安く設定されております。入場無料なんて本来ありえないような話でしょう。行ってみてびっくり、皆さん素晴らしい演奏に心打たれ、また、それにしては観客数が少ないなあ、と首をかしげるといった現状です。
安かろう、悪かろうは現代には通用しません。要は観客たる皆さんのやる気、積極性にかかっております。
多分に我田引水的なところがありますが、この演奏会にも是非に足をお運び戴きたいと願っております。   (了)

「車」

暮れから正月明けにかけて得難い体験をした。今もその継続中だが、いつも当たり前のように使っていた便利な足、「車」が使えなくなったのだ。
暮れも押し詰まった12月29日の早朝、師走の忙しい計画の元、急いで駐車場へ向かった。エンジンをかけてアクセルを踏んでも思うように発進してくれない。あれっ、暖気運転不足がたたったのかな、としばらく車が温まるのを待ってから又、やってみたが状況は一向に良くならない。それでもノロノロと前に進み始めた。こんな状態では先が思いやられる。まず、駐車場出口の左カーブの所でうまく曲がってくれない。ブーブーと吹かし音だけ鳴って動かない。大汗かいて、なだめすかしながら坂道を下り、何とか通りへ出た。適当な所で車を止め、助けを求めようと電話をすることにした。暮れの29日では留守番電話になってしまう。緊急のJAFの電話番号があったのでそこにかけた。20分くらいで来てくれるという。妻が何事かと心配顔で近くへ来た。今日はもう、車は使えないよ、と言ってJAFを待った。
ガッチリした車体のレッカー車が来てくれた。故障の原因は「エンジンミッションのオイル漏れ」のようでそのまま動かしていると今に完全に止まってしまいますよ、とのことでまた、今の時期、正月休みに入り、どこへも運び込むところがない、正月明けまで待って改めて修理工場へ運び込む以外に手はないとも言われた。今のところ何とか自力で動くので、それでは駐車場へ戻るまで見守ってくださいと言って元の所へ無事に帰れた。レッカー車はそれを見届けてから帰って行った。あのJAFの人には本当に良いアドバイスをして頂き、助かった。
それから後は全くの「車なし生活」で年越しをした。不便とはいえ、いずれこうした生活が待っていると思い、「車なし生活のシミュレーション」をしておこうと妻と笑い合った。
バスと電車、自転車、それにモラージュバス(近くのショッピングモールが運行)、そして何よりも徒歩の活用である。柏駅から南柏のイオンへ運行するイオンバスも活用した。極楽湯へは歩いて行った。豊四季にある、お墓の掃除へ行っての帰り路、途中で洒落た喫茶店に寄って優雅な雰囲気も味わった。元日には寒い中、しっかり並んで福袋を買い、初詣にも行った。
車はないならないで、何とかやれるものである。
今日は5日、昨日の4日朝に電話して、すぐにホンダ柏が車載車を連れてきて工場へ運んで行った。明日の6日には車が直り手元に戻ってくるという。車も部品交換で済むそうで、まだまだ買ってから3年目なので費用はかからないと思う。
「悪夢の8日間」という思いはない。それなりに良い体験をした。私達の不便さばかりでなく、まわりの人達にも多大なご迷惑をかけてしまったが、「車ありき」の生活に慣れ切ってはいけないという警告と受け止めている。
いずれこうなっても大丈夫という自信はついた。車が戻ってきたら、またしばらくはしっかりと「車社会」を謳歌しようと思う。                         (了)

今日の一枚ーその3

sadoji2015-12-11

桐生の家のカレンダーにかわいらしい絵を見つけた。それを元に描いた「今日の一枚」、題名も作者も不詳である。よって私なりに題名を付けた。「巷のヴィーナス」(大きさはF8)。いかにも西洋画らしい雰囲気である。
手元にちょっと不如意のところがあり、今一歩の感じがするが、とても美しい。
※ 改めてこの3作品を並べて「夢の競演」と名付け、楽しんでいる。1つを選ぶとしたら、どれがいいかな?
                                   (了)

今日の一枚ーその2

sadoji2015-12-10

私が三沢へ出張した時のこと、駅裏の旅館に泊まっていた。そこでさりげなく飾ってあるカレンダーの絵に魅せられた。確かルノワール作と思われる「バラ飾りをつけた少女」である。今なら簡単に写真をパチリといく所だが、昔は何の手段もなく、帰ってきてからその絵が欲しくてたまらず、その旅館主へ手紙を書いた。そしたらすぐにそのカレンダーままポンッと送ってきてくれた。手厚い礼状を出したことは言うまでもない。
そして描いたのが「今日の一枚」、代画であるので題名は「バラ飾りの女」(大きさはF8)とでも勝手につけておこう。
渡る世間は鬼ばかり」に出てくる「まひる」のように明るく活発な人のようだ。       (了)

今日の一枚

sadoji2015-12-03

ルノワール作の「ルグラン嬢」である。本作品はウン十年前、日本で何回目かのルノワール展が開催された時の目玉作品であり、街角でこの絵が方々に掲げられていた。作品は彼女のほぼ全身が描かれ、もっと清楚な感じのする名画であるが、これはその部分画として私の得意とする「代画」である。少女の可憐さを損なうことなく、もっと可愛く魅力的に仕上がったと自負している。描きあげてから永らく手元に置き、ところどころに手を加えてきた。そしてようやく完成に漕ぎ着けた。
今や毎朝、起きしなにこの絵を観に行っては至福の時を過ごしている。
「ルグラン嬢」と銘打っては、はばかられる気もするので、「R嬢」(大きさはF8号)とでも名付けようか。私の傑作の一品であることに間違いない。              (了)

感動

人間、感動がないと、生きていこうとする意欲も衰えていくのだという。もうどうでもいいやと、投げやりな生活に陥ってしまうのだろう。私も近頃、中々感動を得る機会が少なくなってしまい弱っている。美術館や展覧会、そして自分で夜なべして絵を描いたりしていたが、その絵の方がさっぱり、エネルギーを欠いてしまった。絵か尺八か二者選択を図り、尺八の方を取ることにした。これまで「絵」と「尺八」を半年づつ交互に分けて続けてきたけれど、「二兎を追うものは一兎も得ず」の譬え通りどちらも「虻蜂とらず」の様を呈してきている。私には絵画創作の才がないと見た。日展あたり見に行くと、世の中には絵を本業にしたい人がごまんといることがわかる。とてもああした人たちにはついていけない。
ところで尺八の方はどうだ。これしかないという気持ちで出来るだけ毎日、吹くことにしている。
昨日、千葉県三曲の演奏会が千葉市教育会館であった。しょっぱな(10時半開演)からの出番なので朝8時には家を出た。午後1時頃にもう1曲の出番があり、すっかりお腹を空かせたが何とお弁当は出ないとのこと。「腹が減っては戦は出来ぬ」とばかり、一応荷物をまとめて会場を出た。場合によってはそのまま帰ってもいいかなと思っていた。昼食は千葉中央駅近くのCOCO壱番屋でカツカレーを食べ、さてどうしようかと考えた。演奏会は午後の5時半近くまで27曲もある。引き返しても3時までには会場に入れるのでまだまだ十分に聴いて帰れると思い立ち、のこのこと戻った。そうだ、カセットテープも持参だったのだ。良さそうな曲を4曲ほど吹きこんでみようとも思った。
そして後半部の10曲近くを聴いた。4曲半も録音した。
帰ってから、そのテープを聴き返して「やったー」と思った。沢井忠夫作曲の「雪ものがたり」は最高だ。久し振りに感動した。会場で聴いた時も「いいな」と思ったが、こうしてしっかりテープに取って聴き返してみて、改めて「よかったな」と痛感した。金野鈴道作曲の「小さな祈り」もよかった。やはり「足で稼ぎ」「機会を作って」積極的に前向きに向かっていくべきだ。動けなくなったら死んだも同然ではないか。こうしたことが身に沁みた。しばらくはこのテープで感動を得続けていこう!           (了)

影の力

影は正直である。日が当たれば、必ず影が出来る。影は暗くて見えない、隠れた存在である。影は全く目立たない、縁の下の力持ち。植物の根っこも同じ、縁の下の力持ちである。
「雑草の強さを見たり根の力」
最近、草取りをしていてよく思う。大事に育てていこうとしている苔の根は上っ面だけ地面にくっついているだけなのに、片や目の敵として引っこ抜いている雑草の根は地中深く食い込み、地面にしがみついている。雑草は強い!放っておいたらそれこそあっという間に芝や苔など駆逐されてしまう。雑草と呼ばれる所以でもある。
この根っこの力を見ていてつくづく思う。目立つところだけ見ていてはものの本質はわからない。日向ばかりに目を向けていないで影の部分に気を向けなさい。つまり影の力を大事に考えよということだと思う。
振り返って自分に当てはめてみれば、日は当たらなくても地道に地盤を固めることに精を出し、時期の到来を待って、おもむろに芽を出して上の方へ伸びていけということに通じると思う。
日頃の当たり前のことに手を抜かず、一生懸命に生きよ、(影の部分を大切にしよう。)ということだ。また目先のことに追いまくられてばかりいては目標を見失ってしまう。大局を見据えて、長期戦略でこなしていくのがよい。  (了)