魂の自由人

曽野綾子著「魂の自由人」(光文社)を読んだ。
文中からいくつか取り上げてみよう。
「このエッセイの題から、「自由人」というものは、他人にも、家庭にも、社会にも、国家にも何にも束縛されない人のことだ、と考えている人がいたら、私はむしろ反対のことを言っているように見えるだろう。
しかし、すべての人は幽霊ではないのだから、横軸と縦軸のクロスした地点で生きている。それはその人固有の現実を正視する体力・気力・知力がなかったら出発点の足固めもできないということになり、その人は、とうてい自由人になることはできないのである。
夢のようなことを望み続ける若い青年たちや、いささかの不都合があるとすぐ社会が悪いと言い募る政治的人間や、社会のためのほんの少しの個人的損失も許せないという強欲な市民意識の持ち主たちは、現実を把握容認していないという点で、何歳になっても魂の自由を得ていない囚われた人なのである。」
「戦後の日本の教育は、どちらかというと、主体性が基本なので、能動態が必要だとしながら、受動態の生き方ばかり教えたように思う。その最たるものは「要求することが市民の権利である」という言葉であった。要求というのは、してもらう、という受動態を示している。もちろん、戦後民主教育は、「自分で考える」「独創性を育てる」などということをしきりに口にしていた。しかし現実は全くそうでなかった。ナイフで友達を刺す子供が出れば、ナイフを学校に持ってこさせない、という選択を回答とした。人を刺すことは悪いことだ、という思想を徹底させ、しかもナイフは生活の必需品であるという暮らしが世界にはたくさんあることも教えずに、ただナイフを追放して刺せないようにしたのである。」
「今の時代、金ほど恐ろしいものはない。誰も見返りを期待せずに金を出さない。魂の自由を確保したいのだったら、公けの金の出し入れに関してだけは、ほんのわずかな額といえども、どこからも突っつかれることがないように収支の記録を常時提出できるように備えていなければならない。」
「魂の自由人」、けっこう引かれるいい言葉である。納得しながら読めたが、これを要約するとなると中々難しい。
本の標題の横に載っている「短文」だけでも掲げておこうと思う。
・「人に嫌われることを恐れてはいけない。」
・「もし自分の努力が必ず実る、ということになったら、人生は恐ろしく薄っぺらなものになるだろう。」
                                               (了)